小川晴也
昭和24年2月22日生まれ。
昭和27年若葉会幼稚園、昭和28年東洋英和幼稚園、昭和30年港区立麻布小学校、
昭和36年港区立三河台中学校、昭和39年慶應義塾高等学校、昭和42年慶應義塾大学経済学部、
昭和46年日本ユニバック株式会社。
昭和53年株式会社一の湯、現在に至る。
父母妹4人7人家族。小、中学校の成績は普通からやや上。ボーイスカウト。
慶応義塾には、幼稚舎、中等部、普通部、志木高校と全部落ち日吉高校に補欠で合格。
【第1のエポック】
高校時代ゴルフ部に入る。部活を通じ、人格形成の土台となる組織、我慢、練習を学ぶ。
大学進学文科系の最高成績学部だった経済学部に推薦を取れた。内部進学者には楽に入れるという良いことの反面外部からの受験では入れないのではないかという恐怖感がつきまとっているのだ。しかし、高校三年時に担任の先生から外部受験をクリアしている学力だといわれた。このことは、何でも集中してやれば出来る。という教訓を与えてくれた。
【第2のエポック】
大学進学後ゴルフ部に入る。同好会で出発したゴルフ部が体育会の正式な部に昇格することに立ちあった。組織、ネゴ、渉外、統率、練習を学ぶ。また、当時日大が強かったが、慶応が良い勝負をするということで、「強い」ということと、「弱い」ということを学んだ。就職も、部活があったおかげで先輩の引きを頂き出来た。
【第3のエポック】
日本ユニバック(株)に入り、営業職になる。コンピュータの第一次フィーバーで、IBMや富士通がしのぎを削って汎用機を売っていた。そこで、営業の「いろは」を教わる。調査、裏付け、報告、判断、プレゼンテーション、プロポーザル、接待、夜討ち、朝駆け、売れない苦痛、我慢。
【第4のエポック】
労働組合の役員をやる。労働問題の「いろは」を教わる。調査、法規、交渉、コンセンサス作り、妥協。
【第5のエポック】
結婚昭和52年4月結婚。異種文化の導入。
【第6のエポック】
転職。昭和53年8月1日家業に戻る。
【第7のエポック】
昭和55年5月キャトルセゾンの改革 ヌーベルキュイジンヌのホテルレストランにする。(熊谷喜一氏の助力)
昭和56年2月一の湯昼席開始。(千澄子女史の助力)
【第8のエポック】
ペガサスクラブに入会昭和60年。セミナーを受けていたがよくわからず。61年渥美俊一先生に初めて出会う。「すべてを売ってしまえ。」価格、品質、組織開発、能力開発、戦略、経営戦略、戦術を学ぶ。ペガサスクラブの会員企業の社長さんたちと知り合う。
【第9のエポック】
一の湯における正札販売(安売り)が、TVと舞台になる。大繁盛の実現。
【第10のエポック】
バブルの精算平成10年不動産売却により再建。同時に仙石原はたご一の湯を開店。
多店化へ第一歩。座右の銘:決してノーといわない。Never say NO!